齋藤健一の交通安全講座

『ミスをすれば死ぬ!』

なぜ老人は、肉体の限界が来ているのに運転を続けるのか

 ハーベード大学狂授 マイケル・サンデル著

 

人は、生きていく過程において、余程の長期間の引籠りでもない限り、社会との接点はある程度存続していく。

 

 そして、ずっと安定した仕事に就いている者、例えば役所等での一か所での雇用が続く平坦な人生だとしても、それは遠目から見れば平坦に見えても、細かく見れば、毎年、様々な異なる出来事が起きているので、必ずしも同一・均質ではないのである。

 

 そうやって、人は経験を積み重ねていくのである。無論、波乱万丈という熟語があるように、激動の人生を送る人物も、中にはいるだろう。

 

 しかし、長く生を積み重ねれば積み重ねるほど、人は生きることに慣れていく。経験が積み重ねられていくからだ。同じIQであっても、20歳の頃は、まだ社会のことを何も知らないヒヨコだったとしても、56歳の頃には、ある程度の経験はしているであろうから、何事にも、新鮮味は無くなる。半面、大してオロオロせずに、物事にあまり動じなくなるという面もある。

 

 そして、老人と言われる年齢は、昔の基準と現代の基準とでは異なるが、ここでは65歳以上、所謂【高齢者】の年齢より、老人と呼称することにする。

 

 65歳の者は、まだ自分を若いと思っている比率が高く、「自分のことを老人などと言うな!」と、牛丼屋で暴れる老害の如く激怒する輩もいるかもしれない。が、65歳は老人である。

 

 年金は老人に対して支給される制度である。故に、障碍者年金ではなく、通常の年金を受け取れる年齢ということは、すなわち老人なのである。年金を受給しているにも関わらず、自分のことを老人ではないと主張するのならば、なぜあなたは、年金を65歳から受け取っているのか?という疑問に、真摯に向き合って頂きたい。

 

 なぜ老人は、自らの老いに真剣に向き合わないのか?

 

 なぜ高齢者は、老人と言われると激怒するのか?

 

 その理由・原因は、【世の中が、若返りの商品で溢れているから】である。

 

 ここでいう商品とは、純粋な若返りクリームとか若返りエステ等の商品だけではなく、書籍や新聞、ネット記事の文章内の言葉も含む。

 

 テレビ番組を見れば、89歳なのに元気に農作業をしている老人を全国放送で流して、アホなタレントが「うわ~、お若いですねえ~!」などと、金の為に、嘘の驚嘆する演技をする。本音では、赤の他人のそんな老人など、どうでもよいと思っているくせに。

 

 そう、現代では、【老いる】ということは、罪のように、まるで犯罪行為と認識されているのだ。

 

 元気な89歳は称賛されるが、67歳でヨボヨボになっている人に対しては、なぜか侮蔑にも似た視線を浴びせるのだ。まるで、六十代で死ぬことが凶悪犯罪であるかのような目で。

 

 通常、89歳という年齢は、男性の平均寿命を遥かに超えて、かなりの割合の人は、もう既に死亡している年齢である。なのにもかかわらず、その89歳の人物は元気に農作業をしているのである。山奥で、或いは漁村で、誰の手助けも借りずに、たった一人で元気に軽トラを運転し、街と山奥とを往復し、鋼の肉体、鉄人の如く、黙々と農作業なり昆布の収穫作業なりをしているのである。一人でボートをこいで、礼文島で、80代の男性が、黙々と元気に昆布を収穫する様子を、私は過去にテレビで見たのである。

 

 テレビでは、歳をとっても元気に活躍する老人が正義である。大して、68歳とか63歳で死んだ有名人などは、早過ぎる死などと形容され、まるで犯罪者扱いなのである。

 

 勿論、テレビ番組の構成スタッフ達も、出演タレント達も、その六十代で病死した有名人を犯罪者扱いなどはしていない。早過ぎる死と形容し発言するのは、その六十代で死んだ人が、皆に愛されていたからであろう。表面的であれ、偽善的であれ、とりあえずは皆に知られて、ワイドショーで枠を取って追悼するに値する人物だったということであろう。

 

 だが、六十代で死んだ人を、早過ぎる死などと形容することは、生命に対する冒涜ではなかろうか?

 

 通常、医学的には、人間の肉体は、50年が耐用年数らしい。50年を過ぎれば、大体、体のどこかに不調が出てくる。どれだけトレーニングをしようが、どれだけ摂取する食べ物に気を付けようが、ほぼ確実に、どこかが悪くなってくる。

 

 現代人は、医学・科学・環境面・衛生面・食料供給の発達のお陰で、寿命が著しく長くなっているだけである。長生きしている者達の実態は、殆どの高齢者が、薬塗れなのである。

 

 その証拠に、日本人の平均年齢が上がれば上がる程、社会保障費も上昇の一途なのである。それはすなわち、医療費の増大なのである。人間、長く歳を重ねれば重ねる程、体に不調が続出するのである。

 

 しかし、それは本来、正しい生命としての姿なのである。

 

 猫も、若い時は、自分の身長の二倍以上ある高い場所にも、助走無しで飛び移れたが、老猫になれば、最早、少しのジャンプも出来ないのである。しかし、それは普通の生の現象なのである。当たり前の光景なのだ。それは異常でも何でもない。生命として、当たり前の事象なのである。

 

 それで、話を戻すが、果たして六十代で死んだ人は、【早過ぎる死】と呼んで良いものなのだろうか?

 

 髪は白髪染め、皮膚は美容整形やエステや化粧品、服装は若々しい色の服、オシャレに着飾れば、外見は若く演出出来る。が、それは本来の姿ではない。実情は、確実に老いているのである。

 

 だから、七十代の女性が、必死になって、いくら若々しくあろうと努力しても、実際の二十歳の女の若々しさには、絶対に勝てないのである。若々しく偽装した人物と、どこからどう見ても若い最中真っただ中の人物とでは、若さの比較において勝負にならないのである。

 

 これは、他人と比べるから、高齢女性は激怒するのである。故に、自分の若い頃と、歳をとった自分とを比較すればいいのである。それなら、自分と自分なので、怒鳴ることもなかろう。自分の若い頃の写真と比較すれば、確実に老いているのが認識できよう。

 

 それで、私は、六十代で死んだ人を【早過ぎる死】と形容すべきではないと思う。

 

 六十数歳まで生きたのなら、それはもう、人間という生命体において、十分生きたのである。それなのに、馬鹿なタレントが、テレビの演出家が、その人物のことを【早過ぎる死】などと呼ぶことは、その人物に対して失礼に当たると思っている。

 

 まるで、その人が、まだまだ元気に生きられた筈なのに、真面目に生きなかったから、六十代で死ぬことになったのだ・・・というような印象を与えかねない。或いは、既にそのような毒されている。視聴者全員が、そう刷り込まれているのだ。

 

 六十代で死んだ人が【早過ぎる死】なのではない。89歳で元気に生活している老人が【長生き過ぎる生】というだけである。

 

 比較対象がおかしいのである。同じ人間という種族であれど、これは全くの別物と分類してよい比較なのである。そもそも比較すること自体が間違いなのだ。

 

 この場合の【凄い長寿】というのは、憧れるという意味のみではない。寧ろ、人によっては、真逆の恐怖の対象ともなる。なぜなら、早くあの世に行きたい人にとり、89歳になっても、まだ体のどこにも、生命を奪う不調が発生しないということは、自死したり誰かに殺害されない限りは、この先もまだまだ生き続けねばならないということになり、それは、とっととあの世に行きたい人にとっては、真の恐怖でしかないのである。

 

 多くの比率の他人は、もう死ねたのに、自分の寿命はまだまだ続くとなれば、これはもう、恐怖以外の何ものでもないのである。

 

 世の中は、六十代で死ぬことを、許してくれない。

 

 若返りの商品で溢れ、七十代でも人生まだまだこれからなどという文章を頻繁に目にし、八十代で元気に大活躍する老人が驚嘆され崇められ褒められている現代、100歳以上が10万人近くに達した時代、そして日本最長寿の115歳の老婆が、横断幕を掲げられて【長寿おめでとうございます!】などと大々的に取り上げられている現代において、六十代で死ぬことを、世間は【早過ぎる死】などと呼び、許してくれないのである。

 

 六十代で死んだ事実を、世間は認めてくれないのである。

 

 実際には、必死になって生きて、六十代で寿命が来たのかもしれないのに、【早過ぎる死】などと形容し、けっして、その一生、その生涯を、褒めてくれないのである。

 

 だが、実態は、人はそれぞれ異なる。同じ大和民族の血しか入っていない者同士でも、実際にはみんなバラバラなのである。太っている大和民族の人もいれば、痩せている大和民族の人もいるのである。これは漢民族もそうだし、朝鮮民族もそうなのである。長命な家系で90歳になっても店の調理場に立って元気に働いている人もいる一方、特に体に悪い生活をしていたわけではないが、六十代前半で、もうヨボヨボになってしまっている人もいるのである。

 

 ここまで、高齢者の車の運転と、【歳をとることは恥さらし!早死には許さない!】というような日本の現状のことは、まるで連結しないような感じたであろう。

 

 だが、見事に連結していると、私は看破している。

 

 普通ならば、高齢者が、もう車をまともに運転できない状態なのに、車の運転を続ける理由は、それはつまり、車がないとスーパーに買い物に行けないからとか、病院に行けない、すなわち生活できないから、と答えるのであろう。

 

 だが、果たしてそうだろうか?本当に、車がなかった場合、その高齢者・老人は、餓死するのだろうか?割と近日中に死亡するのだろうか?

 

 ということは、死亡事故を起こした老人ドライバーは、その死亡事故を起こした瞬間より、もう車の運転は出来ていないと思うのだが、ならばその高齢ドライバーは、その後、家に備蓄していた食料が尽きたら、餓死したのだろうか?

 

 していない。ちゃんと裁判にもヨボヨボの状態で、或いは車椅子の状態で、出席しているのである。それはつまり、その老人・高齢者が車の運転を放棄した後であっても、その人物が生き続けていたことを意味する。つまり、死亡事故以前に、その老人が車の運転をせずとも、生きられたということだ。

 

 何らかの手段で生きる術があったということだ。

 

 具体例を挙げれば、池袋にて2019年にプリウスを暴走させて若い母子を死亡させた飯塚幸三は、事故当時87歳であった。勿論、事故直後から車の運転はしていなかったと思うが、しっかりとその後も生き続けている。そして90歳で刑務所に収監され、禁固五年の判決を受けて収監中だが、まだ死去したという報道はないので、まだ生きていると思われる。

 

 その他の死亡事故を起こした老人も、裁判にしっかりと出席しているので、死亡事故を起こしてから数か月経過しようが、半年経過しようが、一年経過しようが、ちゃんと生き続けているのである。勿論、裁判中に死去した老人もいるにはいるが、それは車の免許を取り上げられて生きる術を失ったからではなく、単なる寿命なのである。

 

 大体、日本人の大部分は都市部に住んでいる。東京23区のような超巨大都市ではなくとも、そこそこの規模の街ならば、車がなくとも、余裕で生存する術はあるのである。

 

 また、田舎であっても、やはり生きる術はあるのである。だが、高齢者は頑固なので、車がない生活を選択しないだけである。

 

 試しに、車がある状態で、車がないものと仮定し、つまり車の使用を一時的に禁止して生活してみて欲しい。二週間なり三週間なり。その期間に車をどうしても使う場合は、誰かが車に轢かれて危篤状態で一刻も早く病院に駆けつけねばならない等の、本当に危機的な状況のみに限定すべきだ。だが、そのような緊急事態は滅多に起こらないので、普通に二週間、三週間は過ぎるであろう。

 

 その間に、車がない状態の生活というのを【探す】べきだ。

 

 そもそも、車がない生活を想像すらもしていないので、探すことすらしていない。探すとはつまり、調べるということだ。どういう手段があるのか、食材を手に入れる手段とか、バスの時刻表とか、役所や都道府県庁に訊きに行くとか、その程度のこともしていないのだ。

 

 探せば、見えてくる景色があるものだ。

 

 そして、いつまでも若いのが当たり前と考えないことだ。年老いるのが通常なのである。〔若々しくいよう!〕という世の中に溢れる掛け声もつまり、業者が金儲けの為に、老人を扇動しているに過ぎない。しかしそれらの扇動は、強制的なものではない。自分が無視すればいいだけの話だ。

 

 そして、長生きするのが必ずしも良いことでもないし、正義でもない。テレビに映る89歳が元気溌剌として農作業をして金を稼いでいるとしても、あなたはその人ではない。あなたはまだ71歳なのにヨボヨボになっているとしたら、それは現実として受け止めるべきだ。

 

 だから、他人と比較するのは止めよう。自分の人生は自分の人生なのである。

 

 もう無理なら、大人しく免許を自主返納すべきだ。死亡事故を起こしてから強制的に免許を取り上げられて、全国報道で顔と名前を晒される前に、賢い判断をすべきだ。

 

 人間、辞め時が最も難しいのかもしれないが、免許を返納せねばならない時は、いつか必ず来る。今迄元気だったのに、いきなり脳出血でポックリと即死するようなケースを除いて。

 

 人の老いは、ジワジワとやってくるものだから。